「子どもたちの生きる世界」パネル見本
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『子どもたちの生きる世界』キャプション
000 大写真(120㎝×180㎝)
水田は押し流されて泥沼と化し、はるか遠くにあったモスクだけが白く輝いていた
[2005年1月 ロンガ アチェ]
001
夕焼けの空に大きな大地をおおって、大きな虹が架かった。
[2001年6月 ボルガン県 モンゴル]
002
大きな馬にまたがって突然現れた少女は、何10頭もの羊を一人で追っていた
[2001年6月 フブスグル県 モンゴル]
003
大人に混じって羊を追ってきた少年は、もうベテランのような振る舞いだ
[2001年6月 フブスグル県 モンゴル]
004
キリスト教教会を中心に、山の上に家々が広がっている典型的なナガランドの村の風景
[1999年11月 ルンクム ナガランド]
005
氏族社会の長老たちが、長老交代の儀式で次の長老たちが村人にふるまう豚を確認する
[1999年11月 ルンクム ナガランド]
006
日本でも30年ほど前までどこでも見られたような、手作りの吹き矢で遊ぶ少年
[1999年11月 ムコクチュン ナガランド]
007
木の実を採ろうと石畳の道をやってきた少年
[1999年11月 ルンクム ナガランド]
008
バスターミナル建設の公共事業で追い立てられた人々が、浜辺を「不法占拠」して暮らす[1997年2月 レイテ島 フィリピン]
009
暴走するようなジプニーと呼ばれる乗り合いバスの間をすり抜けるようして現れた少年[1997年2月 レイテ島 フィリピン]
010
港の市場では魚を売ったり、野菜を運んだりと朝から忙しく働く子どもたちも少なくない[1997年2月 レイテ島 フィリピン]
011
喧騒の鳴り止まない首都の中心部。路地を一歩入ると子どもがバスケットに興じていた
[1997年2月 マニラ フィリピン]
012
NGOの支援で掘る井戸のための大きなコンクリート管の中で昼寝をする子どもたち
[1999年12月 バンティエイ・スレイ カンボジア]
013
政府が地雷被災者を集めた開拓村では、足や手をなくした父親に代わって子どもたちも懸命に働いていた
[1999年12月 バンティエイ・スレイ カンボジア]
014
荒野を拓いて、自分たちで建てた家に帰る地雷の被災者たち。開拓は始まったばかりで生活は苦しい
[1999年12月 バンティエイ・スレイ カンボジア]
015
義足を作るため、足に残っている地雷の破片を取り除く手術を控えて少し憂鬱そうな少年
[1997年11月 シェムレアップ カンボジア]
016
一つ残されたモスクがなければ、ここが町だったことすら想像できない
[2005年1月 チャラン付近 アチェ]
017
わずかに生き残った人々が、再建のために避難キャンプからのモスクに戻ってきた
[2005年1月 ランプー アチェ]
018
自宅跡から遺留品を探す家族。しかし使えそうなものはほとんど何も残っていない
[2005年1月 ロンガ アチェ]
019
漁師だったという男性も一家を全部失い、支援物資保管のテントに一人暮らしだ
[2005年1月 ロンガ・キャンプ アチェ]
020
テントの長屋に暮らす女性は食器を洗っていたが、男たちはすることがない
[2005年1月 ロンガ・キャンプ アチェ]
021
親兄弟を失ったイクバルが朝の水浴びをする。今はNGOスタッフと暮らしている
[2005年1月 マタイー・キャンプ アチェ]
022
母親を失った姉のアリヤと妹のモルディアが、テントの一角でぼんやりと外を見ていた
[2005年1月 ロンガ・キャンプ アチェ]
023
NGOが掲示した、親を捜し求める子どもたちの写真から、自分の子どもを探す男性
[2005年1月 マタイー・キャンプ アチェ]
024
6歳のアマは従兄弟の家にお泊りに行っていて助かったが、家も家族も失ってしまった
[2005年1月 マタイー・キャンプ アチェ]
025
昼間は元気そうに見えるイクバルも夜泣して一人では寝られないとNGOスタッフは言う[2005年1月 マタイー・キャンプ アチェ]
026
津波から一ヶ月後、学校は再開されたが、家も学用品も制服も失った子どもたちも多い
[2005年1月 バンダアチェ アチェ]
027
津波から一ヶ月後の1月26日、再開された学校の始業式で亡くなった友人の冥福を祈る[2005年1月 バンダアチェ アチェ]
028
再開した教室に現れ、目的も告げずに生徒や教師をビデオ撮影するインドネシア国軍兵士[2005年1月 バンダアチェ アチェ]
029
アチェのそこかしこに展開するインドネシア国軍は、津波の後も軍事作戦を継続している[2005年1月 ロンガ郊外 アチェ]
030
さまざまな文化交流を示す国立図書館の膨大な蔵書も砲撃によって炎上、焼失した
[1995年10月 サラエボ ボスニア・ヘルツェゴビナ]
031
1992年の内戦開始から市内には新しい車両が入らず、バスは老朽化するままだった
[1995年10月 サラエボ ボスニア・ヘルツェゴビナ]
032
ガスや電気の供給が止めらた街で、飲料用の清浄な水を運ぶ子どもの姿が風物詩となった
[1995年10月 サラエボ ボスニア・ヘルツェゴビナ]
033
屋根も焼け落とされた工場の煙突が夕日に染まる中、少年は自転車を乗り回していた
[1995年10月 サラエボ ボスニア・ヘルツェゴビナ]
034
山の上にも春がきて、特産のタバコの植え付けが始まった
[1996年2月 シャクラ レバノン]
035
今日は天気がいいからとテーブルを中庭に持ち出して、大家族の昼食
[1996年3月 シャクラ レバノン]
036
イスラエル軍による国連の避難所への空爆で弟を殺された姉は集団葬儀の場で泣き崩れた
[1996年4月 カナ レバノン]
037
イスラエル軍命令で退避させられた人々が我家に戻ると、めちゃくちゃに破壊されていた
[1996年4月 シャクラ レバノン]
038
那覇防衛施設局が作業用に設置したやぐらに座り込んで、基地建設反対を訴える人々
[2004年12月 辺野古 沖縄]
039
新しい米軍基地の受け入れに反対する「命を守る会」前に掲げられた寄せ書きの旗で遊ぶ
[1999年2月 辺野古 沖縄]
040
毎日「命を守る会」の事務所に来ては座り続けることが、地元のオバーたちの表示だ
[2003年10月 辺野古 沖縄]
041
辺野古川が海に注ぐ河口の干潟。夕暮れの中で姉弟がいつまでも波と戯れていた
[1998年12月 辺野古 沖縄]
042
「美ら海」と呼ばれる珊瑚の海まで米軍の海兵隊基地の有刺鉄線が張り巡らされている
[2001年7月 辺野古 沖縄]
043
快晴の空の下、朝鮮中高級学校の運動会で太鼓のプクの演奏を披露する子どもたち
[1998年10月 東京 日本]
044
日本の小学校に当たる初級学校の書道。学校では「国語」の朝鮮語の他に日本語も学ぶ
[1998年6月 東京 日本]
045
女生徒の制服だったチマチョゴリは日朝関係の緊張の度に不届きな日本人の標的となった
[1998年7月 東京 日本]
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